不平等条約の問題点

幕末に日本が欧米諸国と結んだ条約は、日本人の誇りを傷つける不平等条約でした。
江戸幕府が王政復古により倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を引き継いだのですが、戊辰戦争の終結によって明治政府が日本の正統な政府であることが諸外国に認められると、1869年2月4日(明治元年12月23日)に明治政府は江戸幕府が勅許を得ずに締結した(不平等)条約には問題がある点を指摘し、将来的な条約改正の必要性を通知しました。

第一に、治外法権が相手国にだけ認められ、第二に、関税自主権が日本には与えられなかった。欧米諸国との法的な差別を解消する条約改正は、明治の日本人の悲願であり、日本外交の最大の課題となりました。

この条約は1872年(明治5年)から改正交渉に入ることとなっていたため、1871年(明治4年)岩倉使節団が欧米に派遣されました。従来この使節派遣の目的は、条約改正の打診であったといわれてきましたが、実情は刑法などの法律が整備されていないことを理由に、国法や近代的社会制度の整備が遅れていることから、改正時期の延期を諸外国に求めるものであったという学説が一般的になってきています。

次ぎに日本は、イギリスとの間で関税自主権の回復を図ろうとしました。ところが、イギリス商人によるアヘンの密輸事件がおこり、イギリスは領事裁判権を行使し、アヘンは薬用であるとして無罪を言い渡しました。この事件は日本人を怒らせましたが、治外法権に手をつけない条約改正交渉は失敗しました(1878年)。

鹿鳴館とノルマントン事件

1883(明治16)年、政府は東京の日比谷に鹿鳴館という名前の洋風建築をつくり、外国人を招いてさかんに舞踏会を開きました。これは日本も欧米並みの文化を持つ国であることを世界に誇示し、条約改正を有利に進めようとする試みでした。

1885年(明治18年)に太政官制度が廃止され内閣制度が発足。条約改正は明治憲法制定と同時並行で取り組まれ、伊藤博文内閣の外相井上馨は鹿鳴館に代表される欧化政策を行いつつ交渉を進めました。1886年(明治19年)、井上は東京において諸外国の使節団と改正会議を行いましたが、井上案は関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示したため、政府内で農商務大臣谷干城や法律顧問ボアソナードらからの反対意見を受けました。翌1887年(明治20年)、国民がこの案を知るところとなると、全国的な民権運動が盛り上がり(三大事件建白運動)、条約改正交渉は中止となり、井上は辞任しました。

1886(明治19)年、ノルマントン事件が起きました。審査をしたイギリス領事裁判所は、船長に禁固3ヵ月という軽い罰を与えただけでした。この事件を境に治外法権を撤廃するための条約改正を求める国民の声はいっそう強くなりました。

40年がかりの条約改正

1888年11月30日には駐米公使兼駐メキシコ公使だった陸奥宗光が、メキシコとの間にアジア以外の国とは初めての平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功しました。

黒田清隆内閣の外相大隈重信は1888年(明治21年)に交渉を再開するが、外国人を大審院に任用するなどの譲歩案がイギリスのロンドンタイムズに掲載されて日本へも伝わると、国内世論からは激しい批判がわき上がりました。大隈は改正案に反対する右翼団体の団員から爆裂弾を投げつけられ右脚切断の重傷を負い、これが原因で黒田内閣は崩壊、改正交渉はまたしも挫折しました。

欧米諸国はそれでも簡単に条約改正に応じようとはしませんでした。日本はあくまで欧米並みの制度を取り入れることによって、対等な扱いを受けることのできる国になろうと努力を重ねました。1889(明治22)年、日本が時前の憲法を制定した動機の一つは条約改正でした。

山縣有朋内閣で外相青木周蔵は法権の完全回復を目指して交渉を再開。この頃にはロシアの進出などの国際的状況においてイギリスの外交姿勢は軟化を示していたが、1891年(明治24年)の大津事件で青木が辞任に追い込まれた結果、中断を余儀なくされました。

やがて最大の強国イギリスは、こうした日本の近代化の努力を認め、また、極東に進出してきたロシアの南下に危機感を募らせていたイギリスは対抗するためにも、日本との交渉に応じました。第二次伊藤内閣で、メキシコとの間に平等条約締結を成功させた陸奥宗光外務大臣が交渉の責任者となり駐英公使の青木周蔵を交渉に当たらせ努力が実を結び、日清戦争が始まる前の1894(明治27)年、日本の内地を開放するのと引き換えに治外法権が撤廃されました(日英通商航海条約)。このことは後の日英同盟への布石となりました。その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをはじめ各国も治外法権を撤廃しました。

関税自主権の条約改正はさらに遅れ、達成されるのは日露戦争において勝利した日本の国際的地位が高まった後のことです。1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに条約改正が達成されました。岩倉使節団の交渉から40年の歳月が経っていました。

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