天火明命 谿間に来たり
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    弘仁5年(814)-天延3年(975)にわたり、但馬国府の多数の国学者によって編纂された『国司文書・但馬故事記たじまこじき』は、第一巻・気多郡故事記から第八巻・二方郡の但馬国8郡に分けて編纂されている。
    出石いずし郡・七美しつみ郡・二方ふたかた郡を除いて5巻の書き出しは、人皇1代神武天皇より先に、必ず「天照国照彦天火明命あまてるくにてるあめのほあかりのみことは・・・」ではじまる。

    実年で神武天皇の在位年について実態は明らかではないものの、上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧

    によると、紀元前のBC660年から582年とすれば、少なくともそれより前となる。であれば、弥生前期の紀元前660年以前のこととなる。

    あとの2巻の出石郡は、国作大巳貴命くにつくりおおなむちのみことが出雲国から、伯耆ほうき稲葉いなば・二方国を開き、多遅麻たぢまに入り、伊曾布いそう(のち七美)・黄沼前(城崎)きのさき気多けた・津(おそらく津居山あたり)・薮(養父)やぶ水石(御出石)みずしあがたを開きませり。(中略)人皇一代神武天皇は、御出石櫛甕玉命くしかめたまのみことの子・天国知彦あめのくにともひこ命をもって(初代)御出石県主と為し給う。(中略)
    人皇6代孝安天皇53年、新羅王天日槍あめのひぼこのみこと帰化す。多遅麻を賜う。61年、天日槍命をもって(初代)多遅摩国造くにのみやつこと為す。
    七美郡・二方郡はは素盞鳴尊すさのおおのみことから始まる)

    『第一巻・気多郡故事記』 天照国照彦天火明命は国造大巳貴命の勅を奉じ、両槻天物部命なみつきのあめのもののべのみことの子・佐久津彦命をして佐々原を開かしむ。
    佐久津彦命は篠生原ささいくはらに御津井を掘り、水をそそぎ、御田おた・みたを作る。後世その地を名づけて、佐田稲生原さたいないはら・いくはらと云う。いま佐田伊原と称す。気多郡佐々前ささくま邑むら是なり。(のち楽々前郷。いまの豊岡市日高町佐田と道場の山沿い・式内佐久神社)

    『第二巻・朝来郡故事記』 天火明命は丹波国加佐郡志楽国→この地(朝来郡)に来たり。真名井を掘り、御田を開きて、その水を灌ぎ給いしかば、即ち垂り穂の稲の甘美稲秋かんびとうしゅう野面のづら狭莫々然しないぬ
    故れ此の地を名づけて、比地ひち真名井まないと云う。(比地は朝来あさこの古い県名。比地県→朝来郡)

    『第三巻・養父郡故事記』 天照国照彦饒速日にぎはやひ天火明命は、その妃天道姫命あめのみちひめのみこととともに坂戸さかへの天物部命・二田ふたたの 〃 ・嶋戸しまへの 〃 ・垂樋たるひの 〃 ・両槻なみつきの 〃 ・天磐船命あめのいわふねのみこと天揖取部命あめのかじとりべのみこと佐岐津彦さきつひこ命を率い、天照大神あまてらすおおみかみの勅を奉じ、天の磐船に乗り、田庭の真名井原に降り・・・(中略)天火明命これより西して谿間たにま・たぢまに来たり。清明すが宮に駐まる。豊岡原に降り、御田を開く。垂樋天物部命をして、真名井を掘り、御田に灌がしむ。即ちその秋垂穂の八握穂やつかほ莫々然しないぬ。故れ其の地を名づけて、豊岡原と云い、真名井を名づけて、御田井おだいと云う(のち小田井・式内小田井県神社)。
    天火明命は、また南して佐々前原ささくまはらに至り、磐船いわふね宮に止まる。(日高町道場に磐舩神社あり)
    佐久津彦命をして、篠生原に就かしめ御田を開き、御津川を掘り、水を灌がしむ。後世その地を真田さだの稲飯原と云う。いま佐田伊原と称す。気多郡佐々前村これなり。
    天火明命は。また天熊人命を夜父に遣わし、蚕桑の地を相せむ。天熊人命夜父の谿間に就き、桑を植え蚕を養う。
    故れ此の地を谿間の屋岡県と云う。谿間たにまの号なこれに始まる。

    『第四巻・城崎郡故事記』 天照国照彦饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種とくさの瑞宝みずたからを授かり、妃天道姫命とともに、田庭の真名井に降り、(以下養父郡とほぼ同じ)

    『第六巻・美含みくみ郡故事記』 天火明命は妃天道姫命とともに、坂戸さかへの天物部命・両槻 〃 ・二田 〃 ・嶋戸 〃 ・垂井 〃 を率いて、天磐船に乗り、高天原より丹波国に降り給う。(中略)

    『第一巻・気多郡故事記』を除き、天火明命は高天原から丹波国に降りて、御田を作ったのち、谿間に入り、佐田稲飯原を開き御田と為すとしている。また天熊人命を夜父(のち養父)に遣わし、蚕桑の地を相せしむ。谿間の名これに始まる。
    豊受姫命とようけひめのみことはこれを見て、大いに歓喜びて、田庭たにはに植えたり。この地をのち田庭と云う。丹波のこれに始まる。

    文献では主に「丹波」が使われているが、一部には「旦波」(『古事記』の一部)・「但波」(『正倉院文書』)の表記も見られる。藤原宮跡出土木簡では例外を除いて全て「丹波」なので、大宝律令の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられている。
    『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。その由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が有力視されている。[ウィキペディア]

    丹波を最初は田庭と書かれていたことから、いつごろから田庭の訓読みの「たには・わ」が、丹波を音読みで「たんば」と変化したたのかは分からないが、山陰から北陸に共通する口をはっきりと開けない方言からみても、発音上「たには」→「たんば」と訛り、「たんば」を漢字にするときに丹波と書くようになったのだろうか。丹波国府が平城京・平安京に近い桑田郡(いまの亀岡市)に遷され、丹波の中心が丹波となり、北部は丹後・西部は但馬として分国された。

    但馬も『国司文書・但馬故事記』には谿間とあり、「たにま」か、多遅麻と記すので「たぢま」と読んだようだし、のちに但馬と書く。これも音読みでは「たんば」でもある。たにはが訛って「たには」→「たぢま」→「たじま」に変わったのかも知れない。元々同じ大丹波で、丹波(加佐郡がルーツ)は、丹後となり、南部のみ丹波と三国に分国された。

    谷間「たにま」と田庭「たには」、丹波「たんば」・但馬「たじま」を音読みすると「たんば」と同じで音が似ていること、『和訓栞』では丹波を「谷端」、丹と但はカナが誕生するまでの万葉仮名であり、深い意味はないとしても、すでに「たんば」と呼ばれていたから丹と但。旦と当てられたのであろう。

    『校補但馬考』に但馬は、「但遅麻」(舊事紀)、「多遅摩・麻」(『古事記』)、「田道間」(『日本書紀』)、「谿間」『先代旧事本紀大成経(舊事大成経)』とす。ただ但馬と云うのみぞ、古来定まりたる本名にして、その他は、詞(ことば)の通ずる文字を用いたるなり。
    と記している。

    このように「たには」→「たにま」が「たんば」へ、多遅麻「たぢま」、但馬(「たじま」と変化したルーツは同じ「たにわ」ではないかと思える例が多い。漢字の文字が伝わる有史以前にあった地名を万葉仮名に当てはめたとすでに述べた。律令制では国名から土地々にあったふさわしい好字二文字を当てて書いているが、『和名抄』では「丹波」の読みを「太迩波(たには)」としているので平安期までは、少なくとも「たんば」ではなく「たには(わ)」と読んでいたことがわかる。但馬は「太知萬」

    但馬故事記が云う谿間とは、屋岡(八鹿)辺であることは揺るぎない。
    養父市の円山川の山を背に谷間地はさまじがある。国道9号線が通る。谿間はおそらく養父神社や大藪古墳群から養父市八鹿町あたりだろう。

    兵庫県養父市堀畑550

    *『国史文書 但馬故事記』

    但馬国府に任じられた歴代の国司・官人たちが数年の歳月をかけて編纂された公文書なのである。偽書として無視する学者もあるが「但馬故事記序」の書き出しにこう記されている。

    其ノ間、年を経ること158、月を積むこと、1896、稿を替えること、79回の多に及ぶ。(中略)
    然して夫れ、旧事記、古事記、日本書紀は、帝都の旧史なり。此の書は、但馬の旧史なり。
    故に帝都の旧史に欠有れば、即ち此の書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。焉。
    然りいえども此の書、神武帝以来、推古帝に至るの記事書く。年月実に怪詭を以って之を書かざれば、即ち窺うべからず。
    (そうはいっても、この書は神武帝から推古帝の記事を書くのだから、年月は実に怪しさをもって書いていることを否定出来ない。)
    故、暫く古伝旧記に依り之を填(うず)め補い、少しも私意を加えず。また故意に削らず。しかして、編集するのみ。

    『国史文書 但馬故事記』註解を執筆した吾郷清彦氏はこう述べている。
    「この国史文書は、(現存している)『出雲国風土記』に比し、勝るとも劣らない価値ある古文書だ。この文書は左記三種の古記録、計22巻より成る。
    『但馬故事記』(『但記』) 八巻
    『古事大観録』       六巻
    『但馬神社系譜伝』     八巻
    このほかに、『但馬国司文書別記・但馬郷名記抄』八巻、『但馬世継記』八巻、『但馬秘鍵抄』などがある。
    地方の上古代史書のうちで『甲斐古蹟考』とともに東西の横綱として高く評価されるべきものだ。」

    現代でも歴史を知る姿勢として十分通じるべき範として見習うべきことを、奈良時代国府が置かれ、すでに平安時代初期に記紀にも欠落があり、此の書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。と述べられていることに、日本の役人の賢明さを再認識するのである。記録が乏しい神武帝以来、推古帝に至る記事を書いているのは貴重である。

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