城崎(きのさき)の由来

『城崎町史』(1988年)は、豊岡市で出土した木簡に「絹前…」または「縄前…」とも読める文字があることから、「絹前」=キヌサキ説の可能性に触れている。

また一節では、太古、海の入江だった豊岡盆地が紀元前二万年ごろから隆起と海の後退によって次第に陸化、当時円山川河口から日高町水上(ミノカミ)あたりまで沼地状になった一帯を「黄沼前の海(きぬさきのうみ)」と呼んだ。同様に出石町出石川流域にも水上(ムナガエ)という地名がある。

太古はこの付近までが黄沼前(キノサキ)という入江だった。

しかし、いずれも現在の城崎温泉が城崎というようになった事実をどこにも記してはいない。江戸までは湯嶋と呼ばれていてのである。つまり今の豊岡市街地が城崎郷であって、城崎であった。

昭和になってどこの市町村もこぞって「市町村史」を編纂した。しかし本当なのかという部分は在り得るのだ。

戦後それどころではなかった当時は、誰もそんなゆとりはなかったし、日の目を見なかった地域の歴史研究。ブームによって急遽、郷土の史料を編纂するにあたり、数少ない郷土歴史研究家の存在は貴重だった。そのなかでそうした方々の苦労と叡智に敬意を抱くし、それを批判するのではなく、新たな発見や歴史認識等を踏まえて、検証していくことこそ、後の時代の我々の恩義につなぐものであると思うのである。

ではさっそく。城崎は城崎温泉そのものではない。

かつて「城崎」という地名は、旧城崎郡と城崎郷(豊岡市街地中心部)の呼び名だった。温泉地帯は城崎郡湯島と呼ばれていた。

奈良時代から平安時代にかけて、古代の日本国家は、地方行政の単位として国-郡-里(郷)を設けたが、但馬国は八郡に分けられた。当時の但馬国城崎郡は、今日の豊岡市市街地(旧豊岡町)と城崎町を合わせた地域とほぼ重なっている。

城崎の名が現われる最古の記録は奈良・平城京跡から出土した木簡(古代、紙と同じように木片に文字を墨書したもの)で、奈良時代の神護景雲三年(769)の年号が入っており「城崎郡」と書かれている。このほか古代には、「木前」「木埼」「木崎」などと表現されていた。

平安時代の承平年間(931~37)に成立した、わが国初の百科事典『和名抄』は、それぞれの地名に万葉仮名で和訓を付けており、城崎を「岐乃佐木」または「木乃佐木」と万葉仮名で読ませている。城崎郡内の新田(にった)、城崎、三江(みえ)、奈佐(なさ)、田結(たい)の五郷と余戸(あまるべ)が記されている。余戸は現在の香住町余部とは無関係で、所在地は不明。他の五郷は、現在にも生きているおなじみの地名だ。

城崎温泉は、湯嶋、湯島と云われ、古くは城崎郡田結郷湯島と云われていた。とくに田結郷は広範囲で近世には、田結郷をさらに大濱庄、下鶴井庄、灘、気比庄に分れていた。
気比庄は気比、田結、湯嶋、桃島、小島、瀬戸、津居山の七村。

「但馬考」に、湯嶋 この湯の名、古書にあらわれるのは、古今集を始めとす。順の「倭妙抄」には、他の二方の温泉(ユノ)郷を載せしたしは、但馬の湯とのみ云うには、まぎらわしき方もあれど…考えるに、此の地の名、上古は大渓(オオタニ)と云しを、温泉あるゆえ、俗に湯嶋と唱えて、終わりに古名を失えり。

「但馬考」に、「城崎温泉」という呼び名が現れるのは、

温泉

(香川修徳の)一本堂薬選籍編曰く、但州城崎温泉、三敷座(座敷)ありて、…此邦諸州(日本全国)、温泉極めて多し。而して但州城崎新湯を最第一とす。(香川修徳は)新湯を一の湯、二の湯と分けて、二つありとした。

新湯に続いて、中湯、上湯、御所湯、曼陀羅湯、他一か所を記している。

引用:校補「但馬考」、豊岡市教育委員会、与謝野町

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