弥生時代の研究

     弥生時代とは、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前10世紀中頃から3世紀中頃までにあたる時代の名称です。

    弥生時代の暦年代は、近年、自然科学の年代測定の進歩によって新しい情報が増えています。

    研究が進んでくると、時代の過渡期の様相は極めて複雑で、時代区分についても多くの見解の相違が出てきています。

    弥生時代については、現在もどの段階を始まりと終わりと考えるかについて、いろいろ意見がありますが、国立歴史民俗博物館の研究グループによる炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきました。

    これによると、

    弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の三期に分けられていましたが、近年では上記の研究動向をふまえ、

    • 早期(紀元前1000年頃~紀元前800年頃)
    • 前期(紀元前800年頃から紀元前400年頃
    • 中期(紀元前400年頃~紀元50年頃)
    • 後期(紀元50年頃~三世紀中頃)の四期区分論が主流になりつつあります。しかし、一口に弥生時代といっても、1200年間というと、時代区分の平安時代(794~)から現代までをひとまとめにするようなもので、狩猟時代から稲作がはじまり、クニが誕生するまでの、とても長く、未知な世界です。つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。

      出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。こうした最近の研究成果や遺跡・遺物など文献資料にとどまらず、神社や神話・説話など、境界を越えたさまざまな交流の上に展開した日本列島諸地域の古代史を多元的に明らかにするというテーマで、探ってみたいと思います。環日本海の古代史…その大きな謎とロマン(そんなたいそうな(;^_^A
      近年、青森・三内丸山遺跡、島根加茂岩倉遺跡、荒神谷銅鐸、鳥取・大山町、淀江町にまたがる妻木晩田遺跡など、
      新しい発掘によって、古代の人々は、日本海沿岸はもちろんのこと、
      朝鮮半島や中国大陸と自由に航海し、交易していたことが実証されてきました。
      江戸時代まで続いていた北前船も、古代から続いてきた「いにしえの文化遺産」であったといえるでしょう。これからも新しい事実が調査によって解明されていくたびに日本史は、新たな事実に塗り代えられていきます。インターネットによる資料公開は、新しい感動を与えてくれます。だからこそ、歴史は興味が尽きないのでしょう。

    • 但馬国府・国分寺が置かれていた兵庫・日高町…
    • 但馬でも発掘される古墳の数や遺跡の多さ、
    • 全国でも稀な粉々に破壊された銅鐸片
    • 社寺の数等では、但馬古代史の宝庫といわれています。 そこで生まれ、ずっと興味があったこと…改めて「気多(ケタ)」という地名及びエリアの誕生にまで遡って考えてみることも無駄ではないと思うのです。ここでは地元の豊富な遺跡や遺構をもとに、日高町という名称以前の地名であった「気多(ケタ)」という郡名、
      そしてこの土地をそう名付けた愛すべき我々の祖、古代人を、「気多人(ケタジン)」と呼ばせてさせていただき、素人だからこそ、独断と偏見?!で大胆かつ自由な仮説が展開できるのかも知れないと思います。

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