第5章 1.丹後・但馬はヤマト建国の隠されたキーマン

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なぜ、アメノヒボコは突如、但馬に登場するのか?

国史である『記紀』や公式に天皇に献上させた『播磨国風土記』など、ヒボコと但馬が記されているのは、日本建国にとって、何か外せない重要な事実が秘められているからに他ならない。それを裏付けるものと思われるひとつが、但馬の式内社の異常な多さと軍団整備である。式内社とは、延喜式神名帳に記載された神社で、延喜式内社、または単に式内社、式社という。古代律令制における官社。のちに毎年2月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける官幣社・国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた。古くは都の置かれた大和286社や皇統に親しい伊勢253社・出雲187社・近江155社は納得できるのに、次いで、但馬が全国で5番目に多いのは不自然だ。丹波分国後の丹後65社、丹波71社に比べても、但馬には131社もあるのが不思議。その次が、越前126社で、延喜式神名帳がつくられたころの平安の都である山城国122社、伊勢神宮のとともに古社熱田神宮のある尾張121社、河内113社と続く。そのあとは、伊豆92社、摂津72社となるが、遠州62社で、それ以外の国は60社以下、1ケタの国も多い。

しかも、奈良県桜井氏の穴師兵主神社やその遷座とされる近江の兵主大社(滋賀県野洲市)、壱岐の兵主神社を除き、全国的にあまりない社号である兵主神社が丹波1社・播磨2社、因幡に2社あるが、但馬に最も集中しているのは、何か但馬に防衛上重要だった理由があったのではないかと思うのが自然だろう。

『播磨国風土記』では、ヒボコは瀬戸内海-揖保川-但馬出石というルートを通っている。また、加古川から本州で最も低い分水嶺の氷上(水分れ)から、由良川を下れば日本海に達するルートも多く指摘されている。『日本書紀』にある、淀川・近江(琵琶湖に出て)・若狭(敦賀)を経て丹後・但馬に入るルートも、若狭小浜から近江(琵琶湖)・大和へのルートは、奈良東大寺二月堂のお水取りで知られている。

国史といえども、昔の話を集めて編纂した者。すべてが真実かどうかはわからない。まして神話や地元の伝承といえども、まったくの作り話ではない。すべてが神様の絵空事ではなく、そこには何か但馬に理由があると。元々歴史に興味があった。粉々に破壊された久田谷銅鐸・アメノヒボコ。まず式内社や神社研究にはまってしまったきっかけは、最初の但馬国誕生に重要なヒボコは、タジマモリとともに『記紀』『播磨国風土記』などに登場する数少ない但馬の人。なぜ但馬の出石にアメノヒボコが住み着いたのか?

そんなことを『アメノヒボコ、謎の真相』関裕二で、豊岡について記述している。

不便だから価値があった豊岡

門脇禎二は但馬について、出雲を陸路で攻略するための重要なポイントだったと指摘している(『日本海域の古代史』東京大学出版会)

(中略)

おそらく古代の人々は、因幡国と但馬国を徒歩では移動していなかったはずだ。(中略)但馬も西から見れば陸の孤島だ。但馬から見ても、出雲への道のりは、険しく骨が折れる。山陰本線は城崎温泉(豊岡)から海岸線に沿って走るが、トンネルと鉄橋ばかりなのは、地形が複雑で高低差があるからだ。(中略)豊岡の「不便さ」に気付いたとき、豊岡盆地の意味を再確認できた。

豊岡市は、西側から陸路で攻めようと思っても、大軍が海岸線を東に向かうことは不可能だったのだ。そして豊岡は、門脇禎二のいうような「陸路で出雲につながっているから拠点になった」わけではなかったのだ。

ならばなぜ、ヒボコは天皇から下賜かしされた土地を拒んでまでして、但馬(豊岡市出石)に固執したのだろう。もちろん、アメノヒボコがヤマト建国直前に日本にやって来たと筆者は考えるから、この時代「天皇」はまだ誕生していなかったし*2、ヤマトに強い王が立っていた可能性は低い。

(中略)

豊岡盆地は、円山川が「産道」で、奥座敷の盆地中央部が子宮のようになっている。加工部分が最も狭く、川を遡るにしたがって広大な平野が姿を現すのだ。そして、周囲を小高い山が囲んでいて、西側はリアス式海岸と起伏の激しい山並みが続き、豊岡(出石)を攻撃することは困難だ。当然西から攻めるなら、海から侵入するほかはない。ところが、「河口付近の左右が急峻な断崖」で、ここで両側から襲われる恐れがあり、されにそこを越しても、(川の)両側から矢を射かけられ、先には進めなかっただろう。だから、豊岡盆地は、海の民の止まり木であるとともに根城であり、要塞の役目を果たしたのである。

播磨で出雲神と闘っていたアメノヒボコ

アメノヒボコについて、「ある特定の個人を指しているのではなく、渡来系の技術者集団を意味しているのではないか」とする考えが根強い。弥生時代から継続的に日本に渡って来た渡来人集団が伝説化され、アメノヒボコと呼ばれるようになったのだろう。

ただし、その中の指導的立場にいたひとりがモデルとなって、英雄視されていたのではないかと、筆者は疑っている。

(中略)

アメノヒボコと同一とされるツヌガアラシトは、角鹿(福井県敦賀市)にたどり着いて、角鹿と豊岡(出石)を海の道で結んだ「タニハ(丹波)」の領域こそ大きな意味を持ってくるからだ。

ただし、この「地勢上のタニハ(但馬)の特性」を理解するためには、少し遠回りをしなければならない。

まず『播磨国風土記』のヒボコの活躍に注目してみよう。

播磨でヒボコが大暴れしている。しかもヒボコは出雲神(アシハラシコオ)と闘っているのだ。なぜここで出雲神が現れたのだろう。

(中略)

播磨という土地は、争いごとが多かったようだ。『播磨国風土記』は、戦いの伝説で満ちている。(中略)いろいろな地域から人びとが移ってきたという話も豊富で、難波、讃岐、伊予、但馬、河内、大和、出雲、伯耆、因幡、石見といった地域の名が挙がる。(中略)渡来人の活躍も目立つ。

(中略)

播磨と但馬を結ぶ道

『播磨国風土記』に、

昔、この地に荒ぶる神がいて、通る人を半分殺した。だから、「死野」と呼んだ。のちに応神天皇が勅して、「悪い名なので、生野に改めなさい」と命じた。

生野は但馬国の領域だが、古くは播磨国側に組み込まれていた。このあたりと往き来する人がいたと記録されていることは、大きな意味を持っている。播磨と但馬の間の陸路が通じていたことを意味しているからだ。

飾磨郡安相里の条には、応神天皇が但馬から巡行してこられたという話がある。やqはり、陸路は確立していたようだ。

播磨が交通の要衝であることは、はっきりとしてきた。日本海側からヤマトに向かう場合、陸路をとるなら、必ず播磨を通過していたのだ。播磨は日本海と瀬戸内海をつなぐ大動脈の分岐点であり、四国の人間も播磨にやって来たと語られるが、これも一度播磨に渡り、ここから各地に散っていったからだろう。西日本の流通と戦略の要だったことが『風土記』の記事からはっきりとする。だからこそ、ヒボコと出雲神は、播磨の土地争いを演じたのである。徳川家康も、播磨を重視し、姫路城の整備を急がせた。

(中略)

崇神天皇は四方に将軍を派遣した。これが四道将軍で、北陸(道)、東海(道)、西道(山陽道)、そして丹波に、それぞれ将軍が向かった。問題は丹波で、山陰、山陰道とは書かれていない。山陰道をされに進めば出雲に至るのに、だいぶ手前の丹波で止まっている。

直木孝次郎は、『日本書紀』編纂時、山陰道はまだ確立されていなかったか、あるいは編者の意識の上で山陰道は問題になっていなかったのではないかと指摘し、ヤマトからみて出雲はとても遠い国という意識があったというのだ。

(中略)

しかし、これは大きな過ちだ。出雲は日本海の一大勢力であり、僻遠の地ではなく、朝鮮半島との経路上にある重要な地域だ。それよりも、ここで大切なことは、「ヤマトから山陰に向かう陸路は但馬で終わっていた」という事実である。おそらく但馬豊岡と鳥取県との往来には、船が用いられ、陸路はほとんど使われなかったのではあるまいか。

(※拙者註 神功皇后は熊襲征伐に向かう際に、日本海を船で敦賀から丹後半島、但馬、長門から九州に入っている。)

鳥取県と豊岡の間の「遮断された陸の道」が、播磨の重要性を産み出し、また一方で、日本海の「制海権」をめぐる争いが勃発したであろうことは、容易に想像がつくところである。出雲にとって、タニハ(但馬)は船で、東国へ抜けヤマトに向かう際の障害となり、タニハにとって、出雲は朝鮮半島に抜ける際の障害になったのだ。両者はけっして相容れぬ関係となっていたはずなのである。

 

さらに同書ではこう続けている。

 

ヒボコが最後にたどり着いた地・但馬は、古くは丹後とともに「タニハ」だった。「タニハ」はヤマト建国を陰から支えていた。いや、「タニハ」がプロデュースして、ヤマトは建国されたのではないかと思えてくる。
(中略)
但馬国は、「タニハの西のはずれ」にあたる。なぜヒボコは、タニハを選んだのだろう。その理由を知るには、時代背景と地理的条件を知っておく必要がある。
古代の表日本=日本海の中継基地としてタニハは抜群の立地であった。ヤマトから琵琶湖を経て、朝鮮半島と直接往来が可能だっただけでなく、東西日本を結ぶ航路の止まり木として必要だった。
由良川-加古川ルートで陸路を使って瀬戸内海に出るのが容易だった。されに若狭や敦賀から琵琶湖を通ってヤマトに向かうことも可能だった。また東国の発展にタニハは欠かせない要衝であった。

しかし、関氏は、地理的条件といっていながら、但馬国は、「タニハの西のはずれ」にある、「なぜヒボコは、タニハを選んだのだろう」として、但馬と丹後を地理的に同一視しているようである。同じタニハであっても、そのころ大丹波の中心は間違いなく丹後の京丹後市峰山町に丹波という地名が残るように、由良川から敦賀にかけての丹後を含む若狭湾沿岸であった。そのタニハ(今の丹後)から海路で日本海沿岸を西の但馬へ出るには、間に大きく出っ張った丹後半島があり、大きく迂回しなければならない。また但馬へは加古川・由良川ルートは考えにくい。遠阪峠から円山川を下るルートもあるが。先に応神天皇が但馬から生野を越えられたように、瀬戸内海を姫路から生野から南へ流れる市川を遡り、生野から北へ流れる円山川が日本海に注ぐ。

門脇禎二は、ほとんど脚光を浴びることはなかったタニハ(丹波)にスポットを当て、「丹後(波)王国論」を立ち上げた功労者である。そのなかでも『日本書紀』に最初に登場するのは、第10代崇神天皇と11代垂仁天皇の時代に出雲との関わりの中で出てくる。

にも関わらず何の脈略もなく突如ヒボコが但馬に入る記述があらわれる。ヒボコはのちに多遅麻国造となっているが、タニハ(丹波)全体を領してはおらず、あくまでものちに丹波より分国となる但馬国を選んだのである。

日本海沿岸で最初に登場する巨大前方後円墳は、古墳時代前記後半に造営された蛭子山古墳(145m。京都府与謝郡与謝野町加悦・明石)。網野銚子山古墳198m、4世紀末-5世紀初頭(古墳時代前期末葉-中期初頭)頃、神明山古墳(190m・京都府京丹後市丹後町宮)は、「日本海三大古墳」と総称される。これは畿内の大王墓と肩を並べる大きさである。前方後円墳が造営されたということは、ヤマトの同盟体制に組み入れられていったことを意味する。
(中略)
そして、6世紀中葉になると、丹後の元伊勢(外宮)信仰がヤマトに吸い上げられたに違いないというのである。
しかし、京丹後市峰山町にも 豊受大神を祀る比沼真奈為神社、あと一社は、福知山市大江町の元伊勢と呼ばれる豊受大神社皇大神社で、丹後の元伊勢三社と呼ばれている。

ヒボコは、『国司文書 但馬故事記』では、第6代孝安天皇期に但馬に帰化する。タニハ(丹後王国)が登場する崇神・垂仁期よりもだいぶ前である。

『国司文書 但馬故事記』では、第一巻・気多郡故事記・第二巻朝来郡〃、第三巻養父郡〃、第四巻城崎郡〃、第六巻・美含郡〃は、同じく、天火明命が田庭(丹波)の真名井原に降りてのちに但馬を開くと記述しヒボコの記述は一切ないが、第五巻・出石郡故事記のみが、第6第孝安天皇53年 新羅王子天日槍帰化す。と突如記述があらわれる。そして61年、天皇はヒボコに多遅麻(但馬)を与え、初代多遅麻国造を拝命した。


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