◆ハリマ大中トーク◆
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石野博信館長が語る ハリマ大中トーク40 「正始元年銘鏡の背景-但馬・森尾古墳と日本海交易-」

資料はこちら↓

http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000002156-att/p6krdf000000215m.pdf

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 時代は卑弥呼の時代です。3世紀に倭国連合が日本列島にあって、その 国の都が邪馬台国です。邪馬台国は、九州説、大和説などありますが、倭 国の女王卑弥呼が西暦239年に中国・魏の都である洛陽に使いを出してい ます。どんな船で、何人くらいで行ったのか。奈良時代から始まる中国へ の正式の外交、遣隋使とか遣唐使とか教科書で習いましたけど、あの船で もしょっちゅう難破しているんですよね。大きなりっぱな船でも難破して ます。それなのに丸木舟に板を貼った程度の船で、よく行けたなと思いま す。朝鮮半島の帯方郡に魏の出張所がありました。そこの役人に同行して もらって洛陽へ行ってますけど、何千キロですから。陸路も大変だったと 思います。

 ともかく239年に一回目の使いが行った。それが景初3年、西暦の239年 で、その次の年が正始元年です。景初3年1月に皇帝が亡くなっていますん で、次の年には年号が変わる。使いが出発して、洛陽に着くまでに半年、 6か月もかかっていまして、12月くらいに着いて、そして次の年に帰って 来ています。帰ってきた時が正始元年。つまり、日本から使いが来る、そ のために正始元年という最新の年号が入った鏡を何枚か渡してくれていま す。いわゆる『魏志倭人伝』には銅鏡を100枚渡したと書いてます。魏の皇 帝からの下賜品には錦や絹の高級織物をはじめ五尺刀などがあり、銅鏡100 枚は後の方に書いてます。中国側の意識としては、織物の方がはるかに高 価で良いものだ、銅鏡はオマケみたいなものという意識なんですね。ただ 倭国の人間は鏡が好きだったみたいで、「汝好物」(汝の好きな物)と書 いています。魏の年号を刻んだ鏡が3番の表にありますように、今現在12 面、最近、奈良県桜井茶臼山古墳で出たのも含めると13面が日本中で出て います。他にも、「三角縁神獣鏡が『銅鏡100枚』の中心」と考えている 人たちがおりますが、それが正しかったら、その種類の鏡は500面以上出 ていますからあふれますけどね。

 で、今日話題にしますのが、1番・2番にあります鏡で、左側が正始元 年の三角縁神獣鏡で、2番目が但馬の豊岡市森尾古墳の銅鏡です。3番の 表で3世紀の年号鏡の分布をみますと、瀬戸内側の山口県10番とか大阪湾 にも3面程ありますけれども、ぱっと見た感じでは日本海側に多いことが わかります。その中でも、但馬と丹後にかたまっているんですよね。普 通は、魏と倭の交流・貿易は、瀬戸内海がメインルートのように言われ ていますが、日本海側になぜ多いんだろう?、というのが私の疑問の出発 でした。よくこの手の鏡は邪馬台国が手に入れて、邪馬台国の王が各地域 の、邪馬台国の命令に従った地域の王に下賜したと言われているんです。 邪馬台国が大和にあって、そのまんま大和政権として発展していったんだ と言ってます。それにしては瀬戸内海の豪族よりも日本海沿岸の古墳から 出てくるのはなんでやろ。しかも、日本海沿岸の古墳はみんな小さいん です。3番の表の右端に方墳とか円墳とかあり、前方後円墳と書いてある のが3つありますけど、12個の内3つだけが前方後円墳で、後は小さな古墳 です。特に日本海沿岸は一つを除きますと、みんな方墳・円墳から出てき ている。

 先に結論から言いますと、私はこれは中央政権からもらったんじゃな くて、日本海沿岸のクニグニの王は独自に貿易を行っていたんじゃないか、 というのが、サブタイトルに『但馬・森尾古墳と日本海交易』と付けた 理由です。ひとつだけ例を4番にあげてます。丹後の太田南4号墳です。 そこに太田南古墳群の測量図がありますけど、右側の2号墳からはりっぱ な鏡が出ています。問題の『青龍三年銘鏡』は景初三年よりも数年前の 235年でちょっと左側にあります太田南5号墳、山の尾根をちょこっと平ら にした程度の小さな墓から出ています。鏡を専門にやっている先生方は、 もし俺に鏡をくれるんだったら青龍三年銘鏡より2号墳の出土鏡だったら もらいますと言ってます。という事は、学問的には年号が入った鏡は大変 重要だけれども、鏡の質としてはしょうもない鏡だということです。これ がはたして邪馬台国政権や大和政権が下賜するようなモノだろうか。そう いう疑問もあります。

 6番の地図の上に刀の図面を入れています。『魏志倭人伝』に「五尺刀 二本」と書いてあります。2本ですから、「銅鏡100枚」よりは貴重品です。 魏の国の一尺が23cm余りですから、五尺だったら1m20cmぐらいになります。 そんな長い刀は今のところ3世紀の日本列島のどっからも出ておりません。 古墳時代になるとありますけれど。それに近い1mクラスの刀はこの地図 にある分だけ出ています。それが全部日本海沿岸というのも凄いことで すよね。1番は韓国、2番は福岡県糸島市で伊都国という都があった所で す。島根県から1本、11番が兵庫県但馬の妙楽寺、それから12番が兵庫丹 波の内場山遺跡です。長野県の3世紀の墳墓から、渦巻の取っ手がついた 鉄刀が出ています。これは、日本中で3本だけ出てまして、その内の1本 は但馬です。これは韓国製です。韓国で造られた刀が日本海沿岸で、長 野県の北と但馬から出ています。長野県木島平村根塚は、川が日本海に 流れ込んでいる信濃川流域です。

 もうひとつ資料を入れないといけないのが、兵庫県から変わった鏡が 出ていまして、博物館で作りました研究紀要という雑誌の中で「放射状 区画珠文鏡」という難しい題のレポートを書きました。3世紀の日本海 沿岸に多い鏡です。

 つぎに、馬形のバックルです。ベルトの飾りです。それが3世紀の長 野市から出ています。3世紀では初めてで、韓国ルーツです。2・3世紀 の木棺を礫で囲む礫床墓が、長野県の北部と群馬県の北部にあります。 長野県の北と群馬県の北の土器は、この時期同じ顔つきをしています。 長野県の方は箱清水式、群馬県は樽式。名前は違いますけれど、土器 の顔つきはそっくりです。と言う事は、文化的な交流が日常的にあっ た。お墓の作り方もこの二つの地域に集中して礫床墓があります。

  なぜ、今ここで長野県北部と群馬県北部の共通性を言い出したのか。 一番最初に戻りまして、なんでこんなお墓の形が出たのかと言うと、 群馬県の古墳と兵庫の古墳に同じ年号を刻んだ鏡がある、その背景は 日本海交易を通じて但馬の人と、群馬の人がともに、直接か間接か中 国・朝鮮半島と交流をしていたんだ、必ずしも大和政権のお世話にな っていたわけじゃない、という事が考えられるんじゃないかという事 を主張するために礫床墓の例を入れました。そしたら疑問として、同 じ「正始元年銘鏡」が瀬戸内沿いの山口県竹島古墳から出ていること をどう考えるのか。竹島古墳の年代は新しいんです。4世紀になります んで、中国との直接交流ではなく、後世に誰かに貰ったに違いない、と いうことにしております。

 考古学者は大和政権中心の考え方を持つ人間が多くて、僕もその傾向 はあるんですけれども、兵庫県に来て改めて思うのは、兵庫の遺跡は凄 いのに何でマスコミの人が注目しないんだろう。こっちの情報の出し方 も大人し過ぎるんじゃないか、真面目なんですね。ということは、私が 前いた研究所は不真面目なのかとなりますけれども、奈良県は『万葉集』 とか『古事記』とかで、大王一族につながりやすいからマスコミ受けす るんですよね。遺跡の質としてはあまり変わりません。

 今、邪馬台国の時代のネックレスが、館内で展示されています。ロビ ーで梅田東古墳の青いネックレスが展示されてます。この古墳は弥生か ら古墳の初めと言う説明がありますけど、弥生から古墳の初めと言うの は女王卑弥呼の時代です。だからどこか博物館でそういう年代が書いて あったら、「あっ、これ卑弥呼さんの時代だ」。そして、この古墳に葬 られた人は青いネックレスをしていた、とイメージをふくらませて下さ い。終わります。

【2011.5.10】
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【編集後記】 今回のメルマガはいかがだったでしょうか。次号は8月のイベント案内 と、ハリマ大中トークをお届けする予定です。お待ちください。
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