平野国臣

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4 平野釈放と寺田屋騒動

  • 2012.12.19

平野釈放 平野が釈放されたのは文久三年十月のことであった。釈放を延ばしていたのは、平野を釈放したくないのが本心であった、重臣たちはできることなら、その首をはねたいと思っていた。ただ、藩主不在中に実行することにはためらいがあった。黒田公は参勤の帰途上洛参内して天皇より杯を賜ったが、この時改めて平野釈放が決定する。

11 国臣の最後

  • 2012.01.03

平野次郎国臣の最後 沢卿一行は13日の夜から山中をさまよい続け、午前6時に白口(宍粟市一宮町)に辿り着き、地元民に銭を与えて間道を案内してもらい、峠を越えて美作路を使い三田尻に落ちた。

8 平野、長州に向かう

  • 2010.12.19

平野、長州に向かう 9月28日、平野、北垣三田尻に到着 平野と北垣は周防国三田尻に到着した平野と北垣は、招賢閣において同藩筑前藩士の藤四郎、堀六郎、出石藩士多田弥太郎らと七卿に会見。但馬の情勢を報告し、出馬の懇請をした。 9月29日 進藤俊三郎、池内蔵太より天誅組破陣を聞かされる。軍需品仕入れのため京の止宿先花屋に泊まっていた進藤俊三郎、田中軍太郎、西村哲次郎は長州の野村和作、因州の松田正人、河田 […]

5 平野国臣 北垣晋太郎との出会い

  • 2010.03.31

国臣 北垣晋太郎との出会い 北垣晋太郎(のち国道・京都府3代知事・のち内務次官、北海道庁長官)は、養父郡能座村(養父市)の庄屋・北垣家の長男として天保7年(1836)8月に生まれた。父・三郎左衛門は、鳥取藩郷士で儒学を修めまわりの農民から信頼されていた人だった。 天保14年(1843)、北垣は父のすすめに従い、宿南村の池田草庵の青溪書院で原六郎(朝来市佐中の大地主、 進藤丈右衛門の子。22歳までは […]

生野義挙 3/8 国臣投獄される

  • 2010.03.31

国臣投獄される 平野は『尊攘英断録』をもとに『回天管見策(回天三策)』を著し朝廷に献上したところ、孝明天皇のお目にとまり、平野に対して、おぼえめでたくなった。 文久二(1862)年春、福岡藩主黒田公が明石に到着、本陣に宿泊されることがわかった。平野は久光公使者といつわり、黒田公に書状を提出する。それには、黒田公に勤王派へのご協力をお願いし、もしかなわぬ時は、道中に危険が生じた場合、お守りできぬやも […]