天日槍

伽羅色(きゃらいろ)#d8a373


耳井(みみい)神社
天日槍ゆかりの神社

概 要


  1. 諸杉(もろすぎ)神社
  2. 比遲(ヒジ)神社
  3. 多麻良岐神社
  4. 日出神社
  5. 須義(すぎ)神社
  6. 鷹貫(たかぬき)神社
  7. 佐伎都比古阿流知命神社

天日槍(アメノヒボコ)ゆかりの神社は、いずれも式内社で、出石神社と御出石神社を囲むように旧出石郡に集中している。

  • 耳井神社/アメノヒボコの妻が多遅摩前津見(タヂママヘツミ) 豊岡市宮井
  • 諸杉神社 天日槍の子・多遅摩母呂須玖(タヂマモロスク)/出石町内町
  • 比遅神社/多遅摩斐泥(タヂマヒネ) 但東町口藤
  • 多麻良岐神社 多遅摩比那良岐(タヂマヒナラキ)/日高町猪爪
  • 中嶋神社 曾孫が、菓子の神とされる多遅摩毛理、田道間守(タヂマモリ)/豊岡市三宅
  • 日出神社 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)/但東町畑山、清日子(スガヒコ)であり、
  • 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)の娘が菅竃由良度美(スガカマノユラトミ)/須義神社/出石町荒木
    一節には清日子(スガヒコ)の娘とあります。
  • 次の代の多遅摩比多詞の多遅摩比多詞の妻が葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)鷹貫神社/日高町竹貫
  • 娘が息長帯比売命(神功皇后)となります。

私は、この天日槍(アメノヒボコ)ゆかりの神社を調べて、これは後々の伝承に過ぎないのだと断言できる。『国司文書但馬神社系譜伝』によれば次の神社は天日槍とはまったく無関係である。

比遲(ヒジ)神社 本来の祭神は味散君
耳井神社ご祭神は耳井命
多麻良岐神社のご祭神は大荒木命(またの名 玉荒木命、建荒木命)で、大荒木命は、高皇産霊神の十三世孫、玉祖宿祢の祖なり。
鷹貫神社の本来の祭神は当芸利彦命
佐伎都比古阿流知命神社は、平安期までは養父郡浅間郷坂本に鎮座しており、
祭神 佐伎津彦命・阿流知命 (浅間郷開拓の祖神)

耳井(みみい)神社


石碑 豊岡市宮井字大門215
式内社 旧村社
御祭神 御井神(多遅摩前見津) 宮井川のそばに立つ石碑からすると、古来は南から宮井村に入る参道が延びていたようだ。
式内社・耳井神社に比定されている神社。

天武天皇白鳳三年六月、城崎郡司・物部韓国連鵠が
黄沼前縣主(きぬさきあがたぬし)・耳井命を祀ったのが創祀。
同じ城崎郡司・物部韓国連鵠が祀った物部韓国神社がある。天日槍が朝廷側と大国主の娘多遅摩前見津との政略結婚か。多遅摩前見津は天日槍の妻だが、現在の祭神は御井神。耳井命を祀ったという伝承は、後世の付会と考えられている。とされているが、『国司文書但馬神社系譜伝』には、祭神 耳井命とあり、小田井県主・耳井命を祀る神社である。
人皇六代孝安天皇の67年秋9月、神社与佐岐命の子・布久比命をもって小田井県主となす。小田井県主 人皇40代天武天皇の三年夏5月、郡司物部韓国連久々比はこれを祀る。(式内 布久比神社 豊岡市栃江)
人皇七代孝霊天皇の62年秋7月、布久比命の子耳井命をもって小田井県主となす。勧請上に同じ。(布久比神社と同じ時に同じ尾根の宮井に祀られた。)


社殿社殿は天日槍ゆかりの神社としてはかなり痛みが激しかった。

耳井神社はもとは、現在地の西南200mの神処と称する地にあったという。今は静かに村の神社になっているようだが、規模や様式がよく似ているのでこちらがもとの耳井神社ではないかと思われる。

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諸杉(もろすぎ)神社


兵庫県豊岡市出石町内町28
式内社 旧県社
御祭神 多遲摩母呂須玖神(たぢまもろすく)
『国司文書但馬神社系譜伝』は天諸杉命 亦の名 多遲摩母呂須玖、但馬諸助
アメノヒボコ(天日槍)命の嫡子とある。

豊岡市出石総合支所駐車場の前の出石城の東に隣接する古社ですが、私もはじめて訪ねました。この辺りは出石観光の中心にあたります。日本書紀に「但馬諸助」とある神で、
「母呂須玖」が社名の「諸杉」と転訛したようです。


拝殿

創祀年代は不詳。当初は小坂村水上(むながい)に祀られていたが、天正二年(1574)、但馬国守護山名氏が居城を
此隅山(小盗山)から出石有子山に移すにあたり現在地に遷座したという。
本殿

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比遲(ヒジ)神社


兵庫県豊岡市但東町口藤字山姥547
式内社 旧村社
御祭神 多遲摩比泥(たじまひじ)神
多遲摩比泥神は天日槍の孫であり多遅摩毛理の祖父神。
多遅摩比泥とも、多遅摩斐泥とも書かれる。『国司文書但馬神社系譜伝』には、ご祭神 味散君(みさのきみ)。
人皇五十代柏原天皇の延暦三年夏六月、葛井宿祢比遲は出石主帳となり、これを祀る。
味散君、百済国都慕王十世孫・塩君の子なり。葛井宿祢の祖。

多麻良岐(たまたき)神社


豊岡市日高町猪爪字玉谷367式内社 旧村社
御祭神 彦火火出見命 多遅摩比那良岐(たぢまひならき)創祀年代は不詳。
式内社・多麻良伎神社に比定されている古社。
祭神は彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)になっていて、「ヒコホホデミ(彦火火出見)」という名前は、神武天皇の祖父だが、日本書紀の一書では神武天皇の名前となっている。異説として多麻良伎大明神。
天明四年(1784)本殿を再建。

日出(ひので)神社


豊岡市但東町畑山329式内社 旧村社

御祭神 多遅摩比多訶神(たぢまひたか)祭神は、ヒボコの四世孫・多遅摩比多訶神。多遅摩比那良岐の子、田道間守命の弟。社号の日出、鎮座地が日殿村で、この祭神名から取られたものでしょうか。
日出神社は但馬神話で出石を中心とする但馬地方を治めたヒボコの四世「多遅摩比多訶」を祭神とします。神社の創立は明らかでないが、延喜式に但馬国出石郡の小社と記された式内社であります。現本殿の建立は、建築の様式技法から考察して室町時代末期の16世紀初頭と考えられ、その後、宝永元年(1704)、享保11年(1726)、明治21年(1888)に修理したことが棟札によって知られます。解体修理は昭和48年10月に着手し、翌昭和49年11月に工事を完了しています。構造様式は旧規を踏襲し、後世改変された箇所は資料にもとづいて復旧し、覆屋も撤去して当初の姿に修復された。本殿は室町時代末期の様式技法をよく伝えているとして、昭和38年に兵庫県指定文化財となり、昭和45年6月に国指定の重要文化財となった。国の文化財保護審議会において「日出神社本殿は庇部分に後世の改造部分が多いが、手挟、蟇股など細部は当初材を残し、兵庫県における室町時代末期の三間社流造本殿の一例として保存すべきものと考える」と評価されています。

日出(ひので)神社


兵庫県豊岡市丹東町南尾189式内社
御祭神 「多遲麻日多訶神(たぢまひだかのかみ)、由良止美神(ゆらとみのかみ)」大抵神社は旧道にあるので新道ができて、地図にも掲載がなく、ここもどこから入るのかわかりにくかった。


拝殿

本殿に書いてあった説明によれば、「氏を異にする地域の住民が同一神村落(日殿村)(市場村)(南尾村)(出会村)の共同の元で日出神社を氏神として祭祀を祀り、栃森社といわれ、中世から江戸末期まで数百年におよんで伝説として神功皇后が三韓征伐の時、勅使を派遣して供物を献じ、中世の頃市場の高山城出合の山城の城主が社を納め、祭料を毎年献じたともいわれる。江戸時代に入り、寛永~正保の間(1624~1647)出石城主小出吉秀が出石川改修に して、社殿を新築し、幕末安政六年(1859)にも本殿が造立されている。


本殿

明治二年、社名を栃森社から日出神社と複称し、村社昇格明治43年拝殿を建立。本殿の造りは丹波元伊勢と同じ神明造りで、町内でも珍しく南方アジア系の建築様式である。 祭神は多日多可由良止三大神。神社史創立不詳とあり、時代により土地所属が変わりて、神社が移り動いて天災水害に逢い、現在地に鎮座されたものです。」

須義(すぎ)神社

兵庫県豊岡市出石町荒木字竹ヶ原273-1
但馬國出石郡 シ頁義神社 式内社 旧郷社
御祭神 由良度美神(ゆらとみのかみ) 配祀 誉田別
神社伝によると、応神天皇四十年の創祀。
『国司文書但馬神社系譜伝』には、須義芳男命(亦の名は荒木帯刀部命)
一説に、神功皇后が熊襲征討のため
出石神社に戦勝祈願をした時。山の中腹の高い場所に祀ったのもその権力を誇示するためだろうか。


鳥居を過ぎると長い石段が迫る。

式内社・須義神社に比定されている古社で、『三代実録』に、貞観十年十二月二十一日に
正六位上から従五位下に昇進した「菅神」が当社。
吉野朝時代、当社付近を菅庄と称し、八幡宮領となり、八幡神を併せ祀ったという。菅川のそば、菅谷の菅庄に鎮座する神社で、以前は、菅八幡宮と称し、
荒木の八幡さんと呼ばれている神社。かつての京街道沿いにあり、かつて但馬征伐で秀長率いる豊臣軍が浅間峠を越えて出石城攻めに行軍した道です。


拝殿

『神名帳考證』には、多遲摩母呂須玖神(たぢまもろすくのかみ)とある。多遲摩母呂須玖神は天日槍神の子。

菅竈由良度美神は、その多遲摩母呂須玖神の妹、あるいは娘、あるいは四世孫清日子の娘で神功皇后の外祖母と考えられる神らしい。


本殿


石段を登ると境内は以外と広かった。


摂社 八幡神

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鷹貫(たかぬき)神社

兵庫県豊岡市日高町竹貫字梅谷429
但馬國氣多郡 式内社 旧村社
御祭神 鷹野姫命(たかのひめのみこと)創祀年代は不詳。
『国司文書但馬神社系譜伝』に、
鷹貫神社のご祭神は当芸利彦命(またの名 鷹貫彦命)で、人皇十代崇神天皇の十年秋9月、第三皇子・当芸志彦命の九世の末裔、当芸利彦命は、彦坐命に従い、丹波青葉山の賊、陸耳御笠を多遅摩の美伊県の御崎で討ち、その功により気多郡主を賜り、鷹貫宮に鎮まり。


式内社・鷹貫神社に比定されている古社。
現在の祭神は、神功皇后の御生母であり、
天日矛命四世孫比多訶の子葛城高額比賣命(鷹野姫命)とする。耳井神社同様に天日槍との関係性は後世の伝承。

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佐伎都比古阿流知命(さきつひこあるちのみこと)神社二座(山王権現)

参道

式内社・佐伎都比古阿流知命神社に比定されている古社。

兵庫県朝来市和田山町寺内435
但馬國養父郡 式内社 旧村社
御祭神 佐伎都比古命(さきつひこのみこと) 佐伎都比古阿流知命(さきつひこあるちのみこと) 大国主命(おおくにぬしのみこと)創祀年代や由緒は不詳。山王権現ともいわれている。

 

延喜式には「佐伎都比古阿流知命神社二座」と書かれており
当時は、二柱の祭神を祀っていたようだ。主祭神は、社号の通り、佐伎都比古阿流知命。
長い参道を登るとさらに参道の石段の上に社が建っています。鳥居の位置が分からなかったので車で境内に行く。


本殿覆屋


佐伎都比古阿流知命と佐伎都比古命の二社

『国司文書・但馬神社系譜伝』
平安期までは養父郡浅間郷坂本(いまの養父市八鹿町坂本)に鎮座しており、
祭神 佐伎津彦命・阿流知命 (浅間郷開拓の祖神)
人皇四代懿徳天皇の二十年夏4月、屋岡県主・天照彦命これを祀る。佐伎津彦命は気多郡佐々前県主佐久津彦命の子。浅間原を開く。阿流知命は佐伎津彦命の子。
同じく同書の糸井郷の神社は、楯縫神社・更杵村大兵主神社・桐原神社の三社のみで、更杵村大兵主神社と桐原神社は現存しているが、楯縫神社は糸井にはなく現在は同じ養父市建屋にある。建屋は遠屋郷といわれていたが、郷内には杜内神社一社のみが記されており、糸井から建屋に養父郡の軍団が移され神社も遷座したのかも知れない。佐伎都比古阿流知命神社は養父郡坂本から楯縫神社の元社地に遷座されたとも考えられる。糸井は谷を登って出石に通じ、天日槍と関係があるとされるが、祭神の二神のうち 阿流知命を『古事記』にある阿加流比売と混同した風説に過ぎない。『古事記』応神天皇記新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。
天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神(あかるひめのかみ)であるという。天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。『日本書記』垂仁天皇八十八年紀に以下の一文がある。昔、一人の人が船に乗って但馬国にやって来た。
どこの国の人か、とたずねると
「新羅の国の王子、名を天日槍という」と答えた。
その後、但馬国に留まり、但馬国の前津耳の娘・多遅摩前津見を娶り、但馬諸助(多遲摩母呂須玖神)を産んだ。」

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