謎の巨大豪族「物部氏」

概 要

目 次

  1. 『古事記』の神武東征
  2. 『日本書紀』の神武東征
  3. 長髄彦(ながすねひこ)
  4. もう一つの天孫降臨
  5. 東征ルート
  6. 出雲と但馬の類似点
一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。
しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。
饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?▲ページTOPへ

1.『古事記』の神武東征

 天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。
『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。
神武が九州から東征してヤマトに入った時、浪速国の白肩津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、生駒山麓の孔舎衛坂(くさかえのさか)で長髄彦(ながすねびこ、以下ナガスネビコ)の抵抗に遭います。
ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。
カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。
また、高木神の命令で八咫烏が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。
その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

▲ページTOPへ

2.『日本書紀』の神武東征

『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。
ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。

神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。
『日本書紀』は、このニギハヤヒが物部氏の遠祖であると書かれているのです。
記紀は、九州にいた天皇が大和を制圧するという点で、後の神功皇后・応神天皇母子との類似性が指摘される事がある。高句麗の建国神話

▲ページTOPへ

3.長髄彦(ながすねひこ)

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。不思議に思えるのは、
『日本書紀』では、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)あるいはミカシキヤヒメ(三炊屋媛)、をの妻とし、仕えるようになる。トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・物部氏の祖)をもうけました。宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・美濃・越を平定し、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。
長髄彦は、日本神話に登場する人物。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。その後、八十梟帥(ヤソタケル:『古事記』では八十建と表記)や兄、磯城(シギ)を討った皇軍と再び戦うことになります。このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼がくらみ、戦うことができなくなりました。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。私の妹の三炊屋媛(ミトヤヒメ)を娶(めあ)わせて、可美真手(ウマシマデ)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べました。

▲ページTOPへ

4.もう一つの天孫降臨

古代氏族のルーツを探る場合、伝承で探るしか手段がありません。さいわい、物部氏は家記といわれる
『先代旧事本紀』というのが後世に出、これと各地に残っている伝承をあわせて探っていくと、物部氏が最初は九州にいたことが判明してくるといいます。

一番大切なのは、物部氏が神武より先に大和に来ていることです。

黒岩重吾氏は、邪馬台国は、九州からヤマトに東遷したと考えています。それは、弥生時代の近畿地方には鏡と剣と玉を祀る風習はなかったのに、九州にはそれがあった点です。鏡を副葬品として使う氏族は畿内にはなく、九州独特のものです。

九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ北九州の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされています。

物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によれば、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国の河上の地に天降りたとあります。どのあたりかというと古来諸説ありますが、おそらく石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(東大阪市)のあたり、生駒山の西側にある「日下(クサカ)」の地でなないか、他にも天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社があります。どちらにしろ生駒山系です。なお、天磐船といっても飛行物体ではなく、これは海の船です。
古代氏族の一つとして、また蘇我氏との神仏戦争でよく知られる物部氏は、皇祖神を除いて、天孫降臨と国見の逸話をもつ唯一の氏族です。
これらは、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に降りたニニギ(瓊瓊杵尊や瓊々杵尊)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられます。

ニギハヤヒは、神武東征(じんむとうせい)に先立ち、河内国の河上の地に天降りているのです。
ニギハヤヒが、32の神と25の物部氏の一族を連れて大空を駆けめぐり、河内国の哮ケ峰(タケルガミネ)に天降った。
とされています。
この哮ケ峰は、どこなのか定かではありません。
また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑(とみのしらにわのむら)に埋葬したといいます。

この登美の白庭の邑も、いったいどこなのでしょう。

ところが、日本神話において、天照大神の孫のニニギが葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
とされながら、高天原神話にはこの、大和への天孫降臨神話が見当たりません。

▲ページTOPへ

5.東征ルート

 物部氏の足取りを先に系統づけてみたいと思います。まったくの想像です。

饒速日命を祖とする物部族の一族は、東征からすると、

    中国江南地方(越あるいは秦)脱出
      	  ↓
  	  北九州遠賀川流域
 	┏━━━━━┻━━━━┓
  (瀬戸内海)	 (山陰沿岸)
	↓		   ↓
   伊予国		出雲国・丹波国(但馬国・丹後国含む)
	↓		   ↓
   河内国		   ┣ 越国
    ↓		   ↓
紀伊国 ┫		近江国・山城国 → 尾張国
	↓		   ↓
     河内・日下の草香江
       ↓   
   大和で日本(ひのもと)を建国
     饒速日命 長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚
		  ↓
  日向 神武東征 × 長髄彦との戦い
	   ↓

伝説上神武天皇が納めると物部氏神武天皇に帰順 →宇摩志麻遅命 石見国に御降臨
さらに円山川沿いに20キロメートル離れた円山川河口付近の豊岡市気比(旧城崎郡気比)の地で、但馬で初めて銅鐸が発見されたが、最近、出雲加茂岩倉遺跡の銅鐸と兄弟銅鐸であることがわかりました。

粉々に破壊された久田谷銅鐸片が見つかった気多郡(日高町)の地

神武東征は、天皇家の初代神武天皇(かむやまといわれびこ)が日向(ひむか)国を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話。

この神話の解釈としては、全くの創作であるという説と、九州にあった勢力が大和に移ってきてヤマト王権を築いたという史実を神話化して伝えたものであるという説があるそうですが、信用すべき同時代の文字資料が現れない限り、神武東征を学問的に立証するのは困難であろうとされています。

弥生末期に南九州は熊襲・隼人として北部九州の倭国連合に習合されていない。

いずれにせよ、ニギハヤヒ大和へ向かう。船を使って河内まで四国の北岸を通っていったのは、どうやらすでに地域国家を形成していた吉備の勢力を避けて海運ルートで行ったからではないかと思われています。
記・紀においては、「天磐船」(アマノイワフネ)に乗り、天上から下ったとされながら、高天原神話には天孫降臨神話が見当たらないのです。

▲ページTOPへ

6.出雲と但馬の類似点

  • スサノヲ、オオナムチの神社が多い
  • 因幡宇部神社(武内宿禰)の伊福部氏:出石伊福部神社(出石町鍛冶屋)天香久山命を祀る。
  • 出雲意宇(おう)郡。意宇(おう):気多郡伊福(ゆう)村多々谷(たたのや)・楯縫神社、朝来市伊由(いう)の類似。付近に物部や多々良木(たたらぎ)集落。:出雲たたら製鉄
  • 物部神社(石見):物部韓国神社(城崎郡飯谷)
  • 久々比(ククヒ)神社・中嶋神社の祭神:田島守、摂社:天湯河板拳命:鳥取部=天湯河板拳命(あまのゆかわたな)
  • 楯縫郡(現在の旧平田市の大半及び旧簸川郡大社町(現・出雲市)) 出雲国風土記によれば、郡名はこの地で杵築大社(出雲大社)の神事道具として楯を造り始めたことに因むとしている。一方、古代日本語で「段丘上の平地」や「高地の端にある崖」を指すという説もある。:楯縫神社(但馬気多郡)円山川の段丘上の平地に鎮座。円山川対岸に多々谷(タタノヤ)=たたら? 井田神社 大己貴命の但馬総社「気多神社」
  • 平成12年4月、出石町袴狭遺跡から出土した木製品の船団の線刻画のある木製品(板材)が浮かび上がります。
  • 「太加王」(たかおう)→高生平野(気多郡たこうへいや)、和田山町高生田(たこうだ)▲ページTOPへ
銅鐸 金茶(きんちゃ)#f39800 最初のページ戻る次へ
Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。