謎の巨大豪族「物部氏」
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謎の巨大豪族「物部氏」
概 要 |
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一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。 しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。 饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?▲ページTOPへ |
2.『日本書紀』の神武東征 |
『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。 ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。 神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。 |
5.東征ルート |
物部氏の足取りを先に系統づけてみたいと思います。まったくの想像です。
饒速日命を祖とする物部族の一族は、東征からすると、 中国江南地方(越あるいは秦)脱出 ↓ 北九州遠賀川流域 ┏━━━━━┻━━━━┓ (瀬戸内海) (山陰沿岸) ↓ ↓ 伊予国 出雲国・丹波国(但馬国・丹後国含む) ↓ ↓ 河内国 ┣ 越国 ↓ ↓ 紀伊国 ┫ 近江国・山城国 → 尾張国 ↓ ↓ 河内・日下の草香江 ↓ 大和で日本(ひのもと)を建国 饒速日命 長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚 ↓ 日向 神武東征 × 長髄彦との戦い ↓ 伝説上神武天皇が納めると物部氏神武天皇に帰順 →宇摩志麻遅命 石見国に御降臨 粉々に破壊された久田谷銅鐸片が見つかった気多郡(日高町)の地 神武東征は、天皇家の初代神武天皇(かむやまといわれびこ)が日向(ひむか)国を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話。 この神話の解釈としては、全くの創作であるという説と、九州にあった勢力が大和に移ってきてヤマト王権を築いたという史実を神話化して伝えたものであるという説があるそうですが、信用すべき同時代の文字資料が現れない限り、神武東征を学問的に立証するのは困難であろうとされています。 弥生末期に南九州は熊襲・隼人として北部九州の倭国連合に習合されていない。 いずれにせよ、ニギハヤヒ大和へ向かう。船を使って河内まで四国の北岸を通っていったのは、どうやらすでに地域国家を形成していた吉備の勢力を避けて海運ルートで行ったからではないかと思われています。 |
6.出雲と但馬の類似点 |
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