一宮と但馬五社

概 要

目 次

  1. 神社が多い但馬
  2. 名神大社(十八座)
  3. 但馬五社
  4. 神社に見る勢力図
 但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社のみですし、出石神社も古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされています。

1.神社が多い但馬

全国の神社について公式に記録で現存するのは、平安時代中期(十世紀)の初頭選定された、「延喜式・神名帳」です。全国には大492座、小2604座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

大小合わせて131座というのは、例えば

  • 大和國:286座 大128 小158
  • 伊勢國:253座 大14 小235
  • 出雲国:187座 大2 小185
  • 近江国:155座 大13 小142
  • 但馬国:131座 大18 小113
  • 越前國:126座 大8 小118近隣で比べると、
  • 丹波国:71座 大5 小66
  • 丹後國:65座 大7 小58
  • 若狭国:42座 大3 小14
  • 因幡國:50座 大1 小49
  • 播磨国:50座 大7 小43
    となっているので遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。
一宮(いちのみや)は、神社の格式を記した『延喜式(十世紀)』には、一宮等の区別を定める規定はありませんが、祭祀・神階などの点で、他社にまさって有力な神社とされるものが明らかに見られるので、それらの最上位のものが一宮とせられ、以下、二宮・三宮・四宮等などの順位を附けて行ったもののようです。

おそらく平安初期にその実が備わり、同中期から鎌倉初期までに逐次整った制と考えられますが、それは朝廷または国司が特に指定したというものではなく、諸国において由緒の深い神社、または信仰の篤い神社が勢力を拡大するに至って、おのずからその国の神社の階級的序列が生まれ、その首位にあるものが一宮とされ、そのことが公認されるに至ったもののようです。

出石神社は但馬一の宮で大変古い神社ですが、このあと天日槍(あめのひぼこ)の項で詳しく述べるとして、但馬国一宮は出石神社と粟鹿神社の二社とされています。但しいくつかの資料で異なっており、鎌倉時代の「但馬国大田文」では粟鹿神社を二宮としていますが、室町時代の「大日本一宮記」では粟鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。室町時代は山名宗全が出石神社に近い出石此隅山城を本拠として出石神社を擁護し、応仁の乱の際には出石神社に祈願して此隅山城から出陣したと伝えられているので、記載されていないのが不思議です。
ここではヤマト朝廷成立以前にすでに存在していた古い神社を弥生時代に起源を求め、ご紹介します。

名神大社(十八座)

朝来郡 朝来市 粟鹿神社 名神大・旧県社
養父郡 養父市 養父神社(夜夫坐神社) 名神大二座。小三座・旧県社
水谷神社 名神大・旧村社
出石郡 豊岡市出石町 出石神社(伊豆志坐神社) 名神大八座・国幣中社・別表神社
御出石神社 名神大
気多郡 豊岡市日高町 山(やま)神社 名神大・旧村社
戸(へ・との)神社 名神大・旧村社
雷(いかづち)神社 名神大・旧村社
豊岡市竹野町 ?(木偏に蜀)椒(ほそぎ・はじかみ)神社 名神大・旧村社
城崎郡 豊岡市 海(カイ・あまの)神社 名神大・旧村社

山陰道但馬国

  • 一宮 出石神社 兵庫県豊岡市出石町宮内
  • 一宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
  • 二宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
  • 三宮 水谷神社 兵庫県養父市奥米地字中シマ235
  • 三宮 養父神社 兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3
    粟鹿神社については、一宮とも二宮ともいわれています。
    名神大18は以下の通りで、全国的に大和国 大128、山城国 大53に次いで多い。山陰道でも圧倒的に多く、しかも自然神が他国では皆無なのに19社中5社はきわめて珍しい。3.但馬五社またこれとは別に、但馬を南北に流れる円山川沿いに絹巻神社・出石神社・小田井縣神社・養父神社・粟鹿神社、この5つの神社を総称して「但馬五社」と呼び親しまれています。各神社間は約12km、お正月にはこの五社をめぐると大変御利益があるとされ、露店も並び、多くの参拝者で賑わいます。

    粟鹿神社 朝来市
    養父神社 養父市
    出石神社 豊岡市出石町
    小田井縣神社 豊岡市
    絹巻神社 豊岡市

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3.神社に見る勢力図

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4.粟鹿(あわが)神社

但馬國朝來郡 粟鹿神社
兵庫県朝来市山東町粟鹿2152式内社(名神大)。但馬國一宮。旧県社。但馬五社の一つ。
御祭神:「粟鹿大明神元記(げんき)」によると阿米弥佐利命(アメノミサリノミコト)
神紋は、茗荷と菊の合せ紋。茗荷紋は、境内社・茗荷神社に由来するらしい。
但馬国随一の古社であり、2000年以上の歴史があるとも言われる。和銅元年(708年)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残る(宮内庁所蔵)。粟鹿神社の祭主は、古代に神部(かむべ)氏が務め、その後、日下部氏(くさかべし)の祖、日下部宿禰(すくね)が務めるようになりました。そして、神部氏と日下部宿禰との接点が『粟鹿大明神元記』にある神部氏系図のなかにみえます。稗史によれば、開化天皇の第3皇子 彦坐王(ひこいますのみこ=日子坐王)の子、四道将軍のひとり谿羽(丹波)道主命(たちはみちぬしのみこと)の子孫で、但馬国造の日下部君の後裔とされます。日下部氏は美濃を領地として、子の八瓜入日子とともに治山治水開発に努めたとも伝えられますが、その後裔氏族は美濃のみならず、常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布しています。
時代は下りますが、戦国時代に大名となった越前朝倉氏は山名四天王のひとり養父郡八木氏から分かれた養父郡朝倉荘の出自で本姓日下部氏で、同じ一族である八木・太田垣、朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、越前朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城下に粟鹿神社を勧請しています。
孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)▲ページTOPへ
由緒 当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。人皇第一〇代崇神天皇の時、第九代開化天皇の第三皇子日子坐王(ひこざおうのみこと)が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。
粟鹿神社が時代によって一宮であったり二宮になったり変化していますが、これは推測すると、奈良時代に但馬国府・国分寺が気多郡(旧日高町)に置かれるようになると、一の宮は国府に近い出石神社に朝廷が力を入れ、一宮を代えたものの、中世武家社会になると国府・国分寺の役割が衰え、日下部君の後裔 竹田城主太田垣氏等が粟鹿神社を一宮として擁護したのではないでしょうか。
現在は両社ともが但馬国一宮を称し、全国一の宮会に加盟している。いずれにしても、但馬国随一の古社で、2000年以上の歴史があるとも言われている。和銅元年(708年)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した『粟鹿大明神元記』の写本が残っている(宮内庁所蔵)。朝廷の信頼厚く、国家の大難に対して4度の勅使が遣わされたと伝えられており、約600年前には勅使門(市の文化財)が建立されている。本殿裏側のこんもりとした丘が、日子坐王命(ひこざおうのみこと)の墳墓という伝承もある。世人はこれを御陵と呼んであがめている。また、近年発見された『粟鹿大明神元記』和銅元年(708)八月に、大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとある。創祀年代は不詳だが、天正九年(737)の『但馬国正税帳』(正倉院文書)に
「朝来郡粟鹿神戸祖代六十六束二把」とあり、粟鹿の名は、昔、粟鹿山の洞穴に住む一頭の鹿が、粟三束をくわえ、村に現われ、人々に農耕を教え、その鹿を祀ったのが、当社であるとされている。また、粟鹿山の荒ぶる神を祀ったとも。昔より御神徳の高い神社として朝廷の御尊崇(ごそんすう)も厚く、国家の大難に際し四度に亘り勅使(ちょくし)を派遣し、御加護を得られたことを記念して約600年前に建てられた勅使門はに指定されている。境内の各末社それぞれ由緒に富み、神域10,540坪の殆どを占める社叢林(しゃそうりん)は、実に聖域にふさわしい森厳(しんげん)そのもので、これもまた町の文化財に指定されている。
近年、豊岡自動車道建設工事の際に、付近で近畿でも最大規模の大型古墳が度々発見され、朝廷の配下に置かれた但馬王が治めていたとされるエリアに近く、但馬の交通の要所として人々の往来がさかんであったことを物語っているかのようだ。
「通りゃんせ」のお話し
粟鹿遺跡▲ページTOPへ

5.養父(やぶ)神社

JR山陰本線と旧山陰街道が並行する東側 但馬國養父郡 夜夫(やぶ)坐神社 五座 式内社(名神大)二座 小三座。旧県社。但馬五社の一つ。

御祭神:倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命

神紋・横木瓜

兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷

 養父は古くは夜夫とも記されています。上社・中社・下社があり大きな神社です。但馬五社の一つで参拝者が多い神社です。
子供の七五三に拝んでいただきましたが、久しぶりに訪れました。「養父の明神さん」と呼ばれ、農業の神として知られています。養父神社のある養父市場は古くから但馬牛の牛市の中心地であり、現在でも近隣の大藪で但馬牛のせり市が開かれています。但馬国府や因幡路に通じる重要な旧山陰道の宿場町として栄え、今もJR山陰本線が走るそばに鎮座して列車からも見ることができます。車で朱塗りの橋をくぐり社務所まで行くことができます。崇神天皇三十年(紀元前68年)創祀と伝えられ、天平9年(737年)の『但馬税正帳』に出石神社、粟鹿神社とともにその名が見えます。御祭神倉稲魂命--------米麦養蚕牛馬の神様少彦名命--------薬草、治病の神様大巳貴命(大国主命)--国土開発統治の神様谿羽道主命(四道将軍のひとり丹波道主命)国民生活安定の神様船帆足尼命-------地方政治の神様
『播磨風土記』には、天日槍(アメノヒボコ)命と伊和大神(葦原志許乎命(あしはらのしこおのみこと)=大巳貴命(おおなむち))が、黒土の志爾嵩(藤無山)に至りおのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。
アメノヒボコ命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。
葦原志許乎命の投げた黒葛は、一条が但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、
そして、最後の一条が御方に落ちたため、
三条(みかた:御方・御形)という地名となった。

アメノヒボコ命の投げた黒葛が出石に落ち、ヒボコ命を祭神とする出石神社があり、また、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社、御方にも葦原志許乎命を祀る御方神社が鎮座する。
養父郡にも、大己貴命(葦原志許乎命)を祀る当社存在するということは、古くからこの地に有力な地方豪族がいて、平定後、四道将軍の少彦名命、谿羽道主命を配祀していることからがうかがえます。

また、神功皇后が半島から帰国した時、その無事をお祝いとして「葛の葉の餅」を功のある神社に賜わった。
そのため、養父神社より斎神社へ神幸があったといい、1800年前から行われているという。
あるいは、
男神と女神の、年に一度の逢瀬であるとも。
当地の最大祭礼に「お走りさん」と呼ばれる御渡祭がある。
当社から、18Km離れた南の斎神社まで
走るように御輿が引かれる神事で
昔、円山川一帯が泥海であった時、
斎神社祭神の彦狭知命が、城崎の瀬戸の山を切り開き
泥海を美田に変えた。
その神恩に報いるため、
五社明神(粟鹿・養父・出石・小田井・絹巻)の名代として礼参に赴いたもの。
大藪古墳群

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6.但馬国一の宮 出石神社(いずしじんじゃ)

 

兵庫県豊岡市出石町宮内字芝地99
伊豆志坐神社八座座[イツシノ](並名神大)式内社 旧國幣中社 但馬國一宮【国指定重要文化財】祭神:天日槍命くわしくは「天日槍(あめのひぼこ)」をどうぞ

7.小田井縣(おだいあがた)神社

但馬國城崎郡 兵庫県豊岡市小田井町15-6
式内社 旧県社御祭神:國作大己貴命(くにつくりおほなむちのみこと)神紋は、沢瀉(オモダカ)紋流麗な春日造本殿がある。国道312号線堀川橋の手前を降りたすぐの円山川沿いにあります。豊岡市の大社で、祭神:当地開拓の祖神・国作大己貴命(おほなむちのみこと)
御由緒

小田井縣神社は、延喜式神名帳(905年)に記されている式内神社で但馬で古くからあって、ご祭神は国作大己貴命であります。大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。第十代崇神天皇の御代(前86年)の十一年甲午春の三月十日、四道将軍谿羽道主命が大神の偉徳を聞き、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、この地方開拓の祖神であります。その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につとめ、祭祀を営んだと伝えられ、四方の崇敬篤く国中屈指の古社であります。

弘安年中(1278年~1287年)時の守護、太田政頼の注進による但馬太田文には、小田井社々領三十一町三反あまり神供田二十五町一反あまりと見えており、この時代には神仏習合となり。社家、(四家)社僧(四ケ寺=金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行なっていたようです。

元弘三年(1333年)癸酉の夏第九十五代後醍醐天皇より、当社に正一位の神階と、御製のご宸筆が下されたといい、当時は祠域広壮、祠宇雄麗で社運は隆盛を極めたと伝えられています。

天正三年(1575年)十月、垣屋筑後守広秀が田結庄是義を征めた野田合戦で、当社の森に放火され、社頭を焼き拂われたために、古文書、古器物は、ことごとく灰となりました。この時ご神霊はみこしで隣の一日市(ひといち)に火難を避けられたといわれています。天正年中(1573年~1591年)羽柴秀吉が中国征伐のとき、当社に陣営をおき、神領を没収し、わずか境内一町三反、神供田一ケ所、神主屋敷七反三畝が残されました。この時より社家社僧は離散して祭祀がすたれ、社運が著しく衰微したといわれています。

貞享年中(1684年~1687年)社殿を再興し、鳥居を建て元文年中(1736年~1740年)神殿を改造しました。現今の春日造の社殿がそれであります。

明治6年(1873年)社格が定められ県社に列しました。

明治十一年(1878年)とだえていた河内神事、矛立神事など古代の神事を復古しました。

昭和6年(1930年)円山川治水工事のため現位置に移転し、約四十年後の昭和四十四年(1969年)堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、えびす神社、川下神社、社務所の改築を行ないました。
昭和25年(1950年)河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。


社門

拝殿
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8.絹巻神社(きぬまきじんじゃ)


但馬五社明神の一つ社 紋 あげ羽蝶
鎮座地 豊岡市気比字絹巻2585-1
御祭神:天火明命(あまのほあかりのみこと)海部直命(あまのあたえのみこと)天衣織女命(あまのえおりめのみこと)
城崎大橋を渡るとすぐに在ります。境内の絹巻山は玄武岩で形成され、その眺めは絹織反物を積み上げた様子をうかがわせています。また、神社の周囲は暖地性原生林に囲まれており、全体が県天然記念物の指定を受け、「ひめはるぜみ」の棲息地として知られています。同じく物部氏ゆかりの天火明命が祀られ、対岸には韓國神社「物部韓國連命」豊岡市城崎町飯谷50-1、物部神社 「磐船長命」 豊岡市城崎町白鳥上256があります。古くは対岸の名神大海神社は当社と同じ場所に祀られていたという。
天火明命(アメノホアカリ)は、『古事記』に天火明命、『日本書紀』に火明命、天照国照彦火明命、また『先代旧事本紀』には天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやのみこと)と記されている。▲ページTOPへ

9.但馬の国造り伝説

円山川に沿う五社の伝説は、どのようにしてできあがってきたのだろうか。その背後にあった太古の記憶は、どうすれば解き明かすことができるのだろうか。アメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

注目すべき点

注目するのは、粟鹿神社、養父神社、小田井神社は但馬の名神大社、但馬総社気多神社、気多神社のいずれも祭神は、当地開拓の祖神として大己貴命(くにつくりおほなむち)を祀っています。伊和神社祭神:伊和大神(いわおほかみ)も同一神とされます。出石神社以外の神社は、円山川河口を切り開き国を造ったヒボコのことは一切ふれていませんし、出石神社もかつての祭神は天日槍ではなかったという説もあるそうです。そうなったのは記紀・播磨風土記に但馬・丹後の話がやたらに書かれる崇神天皇・崇神天皇・神功皇后あたりからなのです。謎です。
西刀神社[せと](豊岡市瀬戸字岡746)も、円山川流域は黄沼前海と呼ばれ、沼地のような一大入江であった。この時、海部直命(但馬五社絹巻神社の祭神)は、御子・西刀宿禰に命じて瀬戸の水門を浚渫し、河水を海に流し、円山川の流域は蒼生安住の地になったと伝えられております。

円山川は暴れ川といわれ、とくに小田井神社当たりの円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いています。
今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられている(縄文海進)。 円山川河口部は黄沼前海(きぬさきのうみ)と呼ばれていた入江湖だったので国作大己貴命(くにつくり-)と祭神名を「国を作った大己貴命」とあえて加えているのがなんとも信憑性がありそうです。

出石神社も但馬の古社で同じように祭祀年代は不詳ですが、鎌倉時代の『但馬国大田文』では栗鹿神社を二宮としていますが、室町時代の『大日本一宮記』では栗鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。絹巻さんは海に近く海の神様 天火明命(あまのほあかりのみこと)で元伊勢籠神社と同じですから納得できます。大己貴命同様出雲系の神です。その他の但馬の大社は自然神なのでもっと古社でしょう。大和の天皇系は出石神社の天日槍のみなのです。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。

二つの伝説に共通しているのは、「但馬(特に円山川(まるやまがわ)流域)はかつて湖だったが、神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点で共通している点です。

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9.式内社 水谷神社

(2008.10.12)名神大 旧村社

養父市奥米地字中島235

御祭神 不詳
祭神は不詳だが、『平成祭データ』では天照皇大神、
『式内社調査報告』には、「水谷=水垂」と考え水神とする説や
保食神とする説などが記載されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信

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銅鐸 金茶(きんちゃ)#f39800 最初のページ戻る次へ
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